○内閣総理大臣(安倍晋三君) 一般にいわゆる天賦人権説とは、基本的人権は国家から与えられるものではなく、人が生まれながらにして持つ人間の本来享有すべき天賦の権利であるという自然法的な考え方でもありまして、この思想はルソーなどの十八世紀の啓蒙思想家により主張されていたところでございます。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言、さらには日本国憲法に表れていると、このように言われております。
さて、日本国憲法において三大原則、すなわち国民主権、基本的人権の尊重、平和主義において、国民主権と基本的人権の尊重は十九世紀末、日本においては二十世紀においてそれぞれ、それを支える啓蒙思想により社会に定着し、憲法を改正する点は二の、国民主権と基本的人権の尊重の中では環境権、これは京都議定書が発効したにもかかわらずアメリカがそれに従わないでCO2が発生されて大変な問題になっているところなんですけれども
近代刑法は、啓蒙思想を媒介として、そのような国家刑罰権のあり方を規制するものとして誕生しました。 近代刑法では、その規制原則として、法律なければ犯罪なく、刑罰なしという罪刑法定原則、刑罰の重さは社会に与えた損害あるいは侵害の程度に従うという侵害性の原則または行為原則、責任なければ刑罰なしという責任原則を認めています。これらの原則は今日でも守られなければならないと思います。
そういったこともあると思いますので、是非啓蒙思想的な立場で何か冊子を作ってもらって、このIT社会はイコール個人がもっともっと責任を持ってセキュリティー対策というものを、自覚を持って行動していかなければならないんだと、そういったものを各諸団体、民間団体に配布しながら、どんどんどんどん積極的にそういった分野でも活動していただきたい、そう思うんですけれども、大臣のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
これはフランスの啓蒙思想の思想から受け継がれているわけですけれども。 このシビリアンコントロールということを言い出したのは実はアメリカでありまして、これは、アメリカの独立戦争と我々は言いますけれども、実は革命戦争とアメリカ、英語では言っているみたいですね。その革命する、何の革命かというと、英国の国王に対する反乱軍であった。それがシビリアンコントロールの始まり。
そうじゃなくて、やっぱり食材食材で、やはり現場で、その現場が一番教育現場としたら効果があるわけですから、そういったことをしっかりとやはりやっていく、それにやはり御父兄の方、保護者の方々にもその辺りを十分理解をしていただくようなやはり啓蒙思想も必要じゃないかなと思うわけなんですが、この点について、じゃ、河村大臣、お願いいたします。
さらに、ジョン・ロックの思想によれば、憲法は啓蒙思想の落とし子であり、歴史とは啓蒙と伝統との対立の繰り返しであったが、二十一世紀においては啓蒙と伝統の調和を図っていくことが必要であるとの意見が述べられました。 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。
近代憲法というのは、啓蒙思想の落とし子である。落とし子というか、その産物である。啓蒙思想というのは、ピューリタン革命それから名誉革命から始まってフランス革命というものは、いずれも中世から断絶した啓蒙思想が背景にあってつくられたものである。特に、ジョン・ロックという思想家が名誉革命の理論的基礎づけをした。
その点、非常に失礼な言い方になると申しわけないんですが、西洋のいろいろな啓蒙思想なり人権思想なりというものをやや無批判におっしゃられたのじゃないかと。むしろ、その背景となる、まさに先生がおっしゃる、規定づけるところの共同体、この共同体のあり方、存在形態、それの検証をまずしないことにはやや単線的な議論になってしまうと思うんです。
同僚議員の質問で大分私が聞きたいことも出てきておりますが、基本的人権あるいは基本権あるいは人権という考え方が西洋の啓蒙思想の中で出てきて、そして、それが地域社会、共同社会の中ではぐくまれてきている、こういうお話を伺いまして、私は、人権、権利に対応する言葉としての義務という言葉が生き生きとしてきた思いがしております。
ところが、アメリカの場合には、アメリカのビル・オブ・ライツは、スコットランド啓蒙思想の影響を受けております。アダム・スミス、デービッド・ヒュームの話を先ほど言いましたが。この影響を受けて、経験的なもの、自由というのは、伝統の中で生まれ出るもの、本来的に人間がこうであるから当然持っているというものではない。伝統的に培われているもので、人為的につくろうとしても無理。
○阪本参考人 私はスコットランドの啓蒙思想の話をしましたが、ヒュームであるとかスミスであるとかは、人間の本来的な性質はソーシャルなものだと断言しています。確かに個別性があるんですが、その個別性というのは、ソーシャルの中で人の交わりを繰り返すことによってわかる。個人主義というのはそこまで含んでいるんです。
その点では竹内さんなんかは絶えず啓蒙思想でいろいろな面で叱咤勉励をしていただいて、我慢の哲学ではいけないんではないかというようなところを間々お見受けするわけでありますが、GNPの大きな部分であります個人消費の問題、これはいろいろ階層別に訴求対象を限定してといいますか、ターゲットを絞ったアプローチのやり方、ちょっと前にはニューファミリーとかあるいはお年寄りを目がけたシルバーゾーンというのでしょうか、そうした
しかし、私はこの考え方は十八世紀の啓蒙思想の考え方であって、十九世紀を経過するうちにいわゆる歴史主義的な考え方が生まれてきて、個と類の中間に種の論理、これを築いてきたのが私は十九世紀ではないかと思う。つまり、いい国民であることがいい人類につながっていくわけであります。
ヨーロッパの諸国は十九世紀にナショナリズムの運動でありますとか、戦争であるとか革命であるとか、いろいろなことを経験しておるので、いわゆる十八世紀の啓蒙思想を克服することができたのだけれども、アメリカはその十八世紀の思想をそのまま二十世紀に持ち越しているものだから、よその国も自分の国と同じように考えているんだ、すべて人類は一つなんだ、理屈を説いていけばみんなそれに賛成するはずだ、そういう考え方を持っているのじゃないかというふうに
それから、この程度の国民がという問題は、要するに国民と政治というものは一種の不可分というか、一つの政府というものは一つの国民のレべルを代表するというみたいな言葉でもいいし、この程度の国民はこの程度の政府というのは端的に言えばそうなるんだけれども、エドムンド・バークの言った、フランス革命の終わりのころじゃなくてまだ始まりのころの啓蒙思想から出発した、彼が議会主義というものを、要するに普通の、普通のというか
時節柄おっしゃるような御理解をされる向きもあったとすれば、私どもの不徳のいたすところで、大変申しわけないのでございますが、決してそういう意味ではなく、まじめな緑化啓蒙思想の普及のために県が行事を行われる、そういったものに対するお手伝いとして私ども行っておるわけでございます。
そしてその次に、この考え方は、「一八世紀の啓蒙思想家によって主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において明文化された。わが国では明治初期に福沢諭吉・加藤弘之ら自由民権論者に承継された。」こうなっておるわけです。 これは、要するに先生のお考えは、いわゆる明治憲法の時代の、それも古い時代の考え方ですね。
その他さまざまな登場人物の間で次々に繰りひろげられる奇矯な姿態、方法による乱交、鶏姦、獣姦、口淫、同性愛等の性的場面であるが、 ということを挙げながら 以上の一場面、一場面の間に、原著者マルキ・ド・サドは、ジュリエットその他の登場人物の口を通じて、自然の法理とか、政治や宗教についての彼一流の思想、哲学を語るのであるが、それは、一八世紀のヨーロッパの精神的潮流となった素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想